は当日はがまんできるかゆさ、翌日がややがまんできないかゆさ/いらいら、その翌日はちいさいぽつぽつがさらにちいさくなり夜は寝られる(つまり昨日から今朝にかけて)程度となり、きょう一日は雨で涼しいせいでまったくかゆくなく、なんとか収束したようです。お風呂にも入りましたが少し赤みがついただけですぐまた元に戻りました。2日にわたり飲んだ薬は効いてなかったかもしれません。そもそも最初の5年前は、点滴をやったあとでの薬で点滴をやったその夜に飲んだきりで翌日はかゆくなくなっておりほとんどは点滴の威力だったと思います。
今日は大好きな雨日和だったので久しぶりに『豆定』の豆を豆定風にコーヒーを淹れてみました。実はいままでは比較的濃い目に淹れるのが好きでしたが、濃すぎることも多々あり、濃いと他の飲・食物同様モノの味わいというものが対象(品種)を変えてもさしたる差も出ずしかも味わいの多要素も実は死んでしまっていると感じるようになりました(というか飲・食に対するここ20年くらいの私の見解です)。暑いうちでもコーヒーが飲みたくなるとなまけてコンビニの150円のMサイズを2杯買うのですがこれがうまい。配達の関係で高速パーキングのファミマのになりますが非常に美味であることがすなおに感じられます。・・・ということできょうは豆定の一穴(ひとあな)如雨露で入れました。軽く粗め、蒸らし10分。通常入れてるより2倍の量の時間をかけてお湯を何回にも分けて入れます。つる首やかんの時起こる蒸らしにともなうふんわり盛り上がりは起きません。作業が終わるまで20分くらいだろうか。・・・ファミマのに近い。ブルマンを粗目・つる首・蒸らしちょっぴりで淹れたのとおんなじかな?ハワイ・コナとかキーコーヒーのトアルコトラジャ?・・・とかの高い豆を買わなくてもこんなにうまいコーヒーができてしまうのよ。
この珈琲の問題は豆腐でもそうで、にがりを習い始めると豆乳は濃いほど(もちろん常識的な限度というものはあるが)やさしくなり、しかも濃厚感があるので、濃いほうへ濃いほうへと仕事が進んでいってしまうのですが実は得るものよりも失うもののほうが多くなってくるのも私見になりますが確かなように感じます。ものには限度がある。豆の持つ味わいの多要素を感じられるのはむしろ薄いほうである。さらに消泡剤すなわち乳化剤を使わないことで濃厚感があっても味が”軽く”なるのです。方向性は私とはいろんな面で異なりますが茂木食品の社長さん(故人、一度食事したことがあります)や司令塔のIさんの見識の高さには頭が下がります。にがりは豆乳が薄いほど、乳化がなされてないほど凝固作業はむつかしくなり、ただ短い時間に一気に激しく攪拌しにがりが全体に分散させようとする”寄せ”方ではきちんと寄りません、これは私の云う”不完全の美”とは全然関係ありません。乱れるゲル化を丁寧に追いかけることでしかきれいに”不完全の寄せ”は行えません。この追跡のおもしろさこそが”寄せの楽しみ・醍醐味”でもあります。豆腐の製作には材料・煮る・寄せ、みんな大事といいますがほんとは”寄せ”に比重が余計にかかっていることはたしかです。似すぎはもちろんだめですが、やや生煮えであっても寄せられる技術が必要です。材料も値段の高い・需要の高い(作りやすく歩留まりのいい)人気のものや”ただ珍しい”というだけではうわべだけのものつくりになってしまいます。食品はだれのためにあるのか、ということが肝要だと思います。
音楽の友社の『合唱事典』が欲しくなり検索していると、結構たくさん出ているんですね。50年くらい前のものだったろうか、随分高かったと思うのですが安く買えるようです。本は売れない、のが感じられます・・・新著も古本も。