なにをする気も起こせないで過ごしていますが、きのうは遠くでいなづまぴかぴかになるまで機械蒔きをやっていました。去年は10日くらいから8月2日までまったく降雨なしのひでりの7月後半で、種まきできずにおわってしまったひとも多いはず。今年は種まきには好条件で、きのうの雨であと一週間は降らなくても楽勝でしょう。でも問題は発芽して花が咲いてそのあとの気温になるのでしょうか。高温障害の恐怖。まあ、なるようにしかならないでしょう。豊作だった畑もあるので品種替えだけが対策の主要部分ではないような気がします。
始皇帝が天下統一するまでをシーズン1にしたプライム・ビデオすべて観ました。宝物にあふれた細部、全体を流れる諸”指揮者”たちの思想、一か多か?といった延々と人類が悩まされ続けている”まつりごと”の問題。けちをつけだしたらどうにでも言葉があちこちから飛んでくるのでしょうが、客観的に指揮するひとたちの思いを描き続けてきた製作者の方々に感謝です。司馬遷の記述がすべて真実かどうかは別にして、あらためて司馬遷の遺産に感謝するばかりです。前半の主役ともいうべき呂不韋も『呂氏春秋』を残しており”一”を目指した呂不韋の考えとは対立する”多”である諸子百家等の多様な考え方を記録に残したこともよくよく考えると”一”の前提にこんなにたくさんのものの考え方があったんだよということを残しておこうとした呂不韋の大いさには感心するばかりです。自分の恋人をのちの大王(始皇帝のおとうさん)にゆずったとか、その大王なきあとの皇太后ににせ宦官を送りこんだりとかの異様な行いも呂不韋全体の人生から考えるとつじつまのあうことばが送れるのかもしれないです。それにしても政略結婚、皇族(宗家)の人質とかで国を越えて接点を複雑に抱え込んでいた力をもっていた階層のひとたちはとてつもない重しをかついで生きていたひとたちばかりで、登場人物たちからは多くのものを教えていただきました。
刺客列伝でも詳細に描かれている荊軻の始皇帝暗殺未遂じけんですが、『始皇帝暗殺』という映画ではずいぶんと列伝からはずれているなという感じがしていたのですが、今回のテレビ版では荊軻の若き日は省略されているにしても暗殺場面は司馬遷を忠実に再現しているのかなと思いました。ほんとにもうちょっただったんですね。大王(皇帝)の座す壇上に武器をもってあがってはならないというのはきびしい”法”であったわけですが、大王が狙われている現実を目の当たりにしていてもだれも刺客をとりおさえようとしていなかったところがなんとも不思議でなりませんでしたが、法治国家の確立をもくろんでいた大王・スタッフたちにすれば”例外”を認めないという徹底ぶりを貫徹しようとしたことなのかなと思いました。と同時に我が国の戦後の「やみ米は食べない」で餓死した法曹人のことが思い出されました、朝の連ドラで出ていたのかな。
そんなわけであまりにもおもしろかったので最初からまた見直しています。46分×78回だったろうか、アマゾンプライムは視聴可能期間があったはずなので途中で終わってしまうかな。